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瀬戸内寂聴の「マインド・ツリー(心の樹)

dfdf 瀬戸内家の家業は「神殿仏具商」。小学校に上がる前すでに『祝詞』『般若心経』を諳んじれた

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 はじめに:「寂聴」の由来。
 昭和時代、女性を主人公にした「伝記小説」を数多く著す

 「瀬戸内寂聴」の名前が広く知られるようになったのは、折しも平成元年の世になっ
 てからのことです。昭和時代には、寂聴は「瀬戸内晴美」という小説家でした。最も
 岩手県中尊寺で得度し、「瀬戸内寂聴」を法名としたのは、1973年、51歳の時、喧
 嘩っ早い小説家で、
梶原一騎らとともに「昭和の怪人」といわれ、参議院議員にして
 天台宗の大僧正・今東光から、僧師の法名「春聴」から一字もらってつけたものでし
 た。瀬戸内晴美が、岩手県二戸市にある小さな天台寺
(僧師・今東光が以前住職だった
 寺)
のこと住職になり、京都嵯峨野に「寂庵」をもうけた2年後の昭和64年・平成元
 年のことだったのです。

 瀬戸内晴美も、僧師の今東光に負けず、新潮同人雑誌賞後の受賞第一作『花芯』がポ
 ルノ小説とされ、以降「子宮作家」と呼ばれ数年間、文芸雑誌からの執筆依頼がなく
 なっています。またそれ以前、東京女子大学在学中に結婚し、夫の勤務地・北京から
 帰国後、夫の教え子と恋仲になり、夫と子供
(長女)を捨てて出奔し、修羅と化して
 います。

 女の業の作家といわれつづけた寂聴の評価を高めることになった出家3部作の一冊
 『花に問え』
(谷崎潤一郎賞受賞)を著したのは70歳の時、『現代語訳ー源氏物語』
 全20巻を完結したのは、76歳の時(
1998年)でした。じつは瀬戸内晴美は昭和時代、
 女性を主人公とした「伝記小説」を数多く著しています。『かの子撩乱』で岡本かの
 子、『美は乱調にあり』では伊藤野枝、『日月ふたり』では高群逸枝、『青踏』で平
 塚らいてう、『お蝶夫人』の三浦環、『遠い声』の管野須賀子などです。代表作の1
 冊となった『場所』
(野間文芸賞受賞 2001年)は、なんと瀬戸内寂聴の自伝小説でし
 た。僧師だった今東光も自伝小説『悪童』を著していたことは寂聴に大きな影響を与
 えていました。


 寂聴は次のように語っています。

 「もし自分の文学の揺籃期というものがあるとすれば、私は物を書きはじめる以前
  の、あの混沌とした幼児期のこうもりの飛ぶ古里の黄昏の中にこそただよってい
  たような気がする」


 晴美・寂聴の「文学」の揺籃期だけでなく、じつは尼僧となった「寂聴」の「マイン
 ド・ツリー
(心の樹)」の”根っ子”も<混沌とした幼児期>にあるのです。東京に
 出て『少女世界』誌に少女小説を投稿していた時のペンネーム「三谷晴美」は、じつ
 は本名だったのです。そして「神殿仏具」を商っていた瀬戸内商店を生家に生まれた
 晴美の幼心の眼にいつも映っていたのは、「四国八十八カ所巡り」の巡礼者たちの姿
 でした。寂聴が描いたのは、女の業ならぬ「人間の業」だったのです。それでは「寂
 聴」の「心の樹」の”根底”へと巡ってみましょう。

 

 

 「四国八十八カ所巡り」の発心の道場、徳島生まれ。
  寂聴(晴美)の「原風景」にあるもの

 瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう/本名:瀬戸内晴美、以下、文中は晴美と記す)は、
 大正11年(1922)、5月15日、阿波の国・徳島県徳島市塀裏(へうら)現在は徳島県
 庁近くにできた中州町に編入)
に生まれています。吉野川の支流・新町川が紀淡海峡に
 そそぐ河口にある小さな町でした。新町川の川岸には、江戸時代より産地として知ら
 れた藍をおさめる白壁の倉庫が両岸に立ち並び、阿波踊りで賑わいをみせてきた蜂須
 賀公の城下町の名残りをとどめていました。河口にある港には大阪への連絡船が朝夕
 に発着する情景と物悲しい汽笛の音。川に沿い帯のように細長く西方にのびた町は、
 女性の眉のように弧を描くなだらかな眉山(びざん)の麓につながっていました。
 こうした「原風景」が、瀬戸内寂聴の心の”根底”に深く流れています。

 くわえて四国八十八カ所巡り(弘法大師・空海が従来からある寺に新たに開いた寺をあわせ
 88カ寺の霊場としたとされる。平安末期頃には修行僧が大師の功徳を偲び巡礼をし、江戸・元禄
 の世になると庶民の間に広がる。徳島・阿波の国は、第1番札所の「霊山寺」から、第23番札所
 の「薬王寺」がある。長い修業の旅のはじまり、「発心の道場」の地といわれる)
の巡礼の旅
 姿と巡礼の鈴の音は、晴美が物心ついた頃には、春の訪れとしっかりと結びついてい
 たといいます。金剛杖の鈴の音が聞こえると、晴美は道路へ走り出て、道行2人と書
 かれたすげ笠に白い巡礼着を着た巡礼者が、「南無大師遍照金剛」と唱える姿を見守
 ったといいます。

 

 瀬戸内家の家業は「神殿仏具商」。父が養子に入る前の瀬戸内家は
 クリスチャン

 瀬戸内家は、「神殿仏具商」(瀬戸内商店)を家業にしていました。寂聴の自伝小説
 『場所』でも『寂聴伝』(斎藤慎爾著)でも、瀬戸内家は十代つづいていたとあるの
 で、ならばちょうど八十八カ所巡りが庶民の間にひろがったといわれる江戸・元禄期
 頃に、仏具の商いをはじめたのかと思ったら、どうもそうではないようです。

 第一に、父・豊吉の本名は三谷豊吉で、瀬戸内商店で生まれ育ったのではなかったの
 です。瀬戸内家には養子にはいっています。豊吉の生家は讃岐の黒羽村でサトウキビ
 から和三盆(特殊な砂糖)を製造する家業を継いできた三谷家でした。この関係で晴
 美は、徳島県立徳島高等女学校に入学するまでは、姓は「瀬戸内」ではなく、ずっと
 「三谷」だったのです。

 豊吉が養子縁組をした時、三谷家にも瀬戸内家にも、それぞれの家の事情があったよ
 うです。瀬戸内家の当主になっていた瀬戸内いとは、若い一人息子を失い、また裁判
 官だった夫にも先だたれていました。じつは瀬戸内家が代々「神殿仏具商」を営んで
 いたのではなかったのです。そもそも、瀬戸内いとは神戸の須磨に住んでいて、クリ
 スチャンでした。瀬戸内海に面した香川県引田にある瀬戸内家の墓石には十字架とヨ
 ハネ黙示録が刻まれているのです。瀬戸内いとが三谷家を訪れた際には、子供たちに
 『聖書』を教え聴かし、食事の際には「アーメン」と唱えさせていました。三谷豊吉
 にとって瀬戸内いとは大伯母にあたる存在でした。

 

 

 父の実家、三谷家は、和三盆の製造を家業にしていた。
 妻と子を残し出奔した祖父の血

 一方、三谷家は、江戸時代から6代にわたって継承された和三盆の製造を家業にして
 いました(徳島で製造されたものは「阿波和三盆糖」と呼ばれ、香川県産の讃岐和三盆糖ととも
 に伝統の高級砂糖として知られ、その製造方法は秘伝扱い。口にふくむと素早く溶け風味豊かな干
 菓子の原料にもなっている)
。和三盆の家業は面白いほど儲かり祖父三谷峯八は色町で
 豪遊し道楽し放題だったようです。挙げ句、旅役者一座の女座長に惚れ込み、そのま
 ま一座に着いて行き、その後音信不通になってしまったといいます(20数年後になって
 九州博多にて死去)
。そしてじつはこの父方の祖父三谷峯八に、後に瀬戸内晴美(寂
 聴)
は、夫と子供を残して出奔した自らに流れる自由で奔放な気質と”遺伝子”を
 感じとっているのです。

 何の因果か、「神殿仏具商」をひらいたのが峯八の息子・豊吉(晴美の父)でした。
 残された豊吉の母が製糖工場を番頭となんとか切り盛りしていたのですが最期は人手
 に渡したため、豊吉は徳島の指物商に奉公にでています。指物商でいろんな技術を獲
 たことが、大きな財産となってかえってくるのです。しかも豊吉は手先が器用で、物
 覚えも早く、人より半分の年月でどんな仕事でも覚えてしまうほどだったといいま
 す。大伯母の瀬戸内いとと馬が合った豊吉は、瀬戸内家に養子に入ると、指物職人と
 してのその腕を活かして神殿仏具商の看板を掲げる瀬戸内商店をはじめたのです
 (21歳)
。瀬戸内商店は住み込みの弟子を10人程かかえる大所帯となり、豊吉と縁組み
 した晴美の母コハルはいつも大釜で食事の支度をしていました。

 豊吉は多くの小学校にある御真影奉安殿(天皇陛下の肖像写真が納められている)を手
 がけだし、製図を引き、青写真を自分で焼き村々の神社の建築をも引き受けるように
 なっていったのです。そして家庭の居間の「天照大神」、台所の荒神さん、商家や色
 町で祀られるお稲荷さんなど、人々が祀るものすべてに神殿仏具店として扱う範囲を
 ひろげていきました。それだけの威勢のいい商いができるようになったのも、眉山
 の麓に城下町の名残りをとどめる徳島市東大工町に引っ越したのが大きかったようで
 す。町には見事な箪笥や鏡台をつくる指物師や大工がいて、「神殿仏具商」として年
 季のいる漆塗りや仏壇の製造をはじめることができたのも伝統的な職人の町だったこ
 とが環境が手びろく商売をしようとした豊吉にはまたとない環境でした。

 

 生まれつき滲出性体質、体は軟膏だらけ。言葉も遅い子供だった

 晴美の母のコハルも、商いには慣れていました。豊吉と結婚するまでは、実家の米屋
 を取り仕切る看板娘だったのです。徳島市のすぐ南方にあるコハルの生家の富永家
 は、代々庄屋づとめ。コハルが12歳の時、母が亡くなり、コハルは4人の弟妹の母代
 わりとなります。意を決し田畑をすべて売り払った父・富永和三郎が徳島に移り住み
 米屋をはじめたのです。伯母が持ち込んだ嫁入り話は、豊吉がまだ貧乏な奉公人の頃
 で、毎日泣いて強要された結婚を恨んだといいます。

 豊吉とコハルの間に生まれた最初の子供・艶(つや)が、色白で市松人形のように愛
 くるしく皆に可愛いがられたのと逆に、5年後に生まれた晴美は、肌の色も黒く、女
 ものの着物を着せなければ男か女かわからないような面相だったといいます。虚弱児
 だったため1カ月ももたないだろうと言われ、くわえて2人目は男の子を欲しかった
 父は、ずっと名前をつけずほっておいた状況にもかかわらず、なんとか育っていきま
 した。見かねた祖母が強要して名前をつけさせたといいます。
 晴美の苦難は、幼少期からでした。生まれつき滲出性体質で、年中頭いっぱいに吹き
 出物がでていて、いつも軟膏だらけ、誰も触りたがらずいつも座敷に一人置かれたそ
 うです。物心ついてからも野菜と果物を受け付けず、ビタミン欠乏でいつも体中をか
 ゆがる体質だけでなく、気質も癇癪(かんしゃく)もちで、神経過敏な子供になってい
 きました。疳(かん)の強そうな面相も、そのすべてが姉とは真逆でした。また口が
 達者だった姉に比べ、信じられないことに後のあの口達者な寂聴(晴美)は、言葉が
 ずいぶん遅い子供だったのです。

 

 

 最初の記憶は、死のうと思い詰めた母に背負われたときのもの

 そんな晴美の最も最初の記憶は、やはり暗いものでした。冷え冷えとした二本の線路
 の上をふらつきながら歩く母。母の足元がふらつく度に背負われた晴美の頬が母の背
 にあたる記憶です。もう一つの記憶も、夜道の淋しい道を母が泣きながら歩いている
 光景で、母におんぶされた晴美は心細く震えていました。母はその頃、辛い時期で、
 晴美をしょって家を飛び出し、いっそ死のうかと思い詰め歩きまわっていたそうで
 す。
 晴美から寂聴になって以降も、暗くうら哀しい情景が、思いがけないときに思いがけ
 ない場所で、記憶の底からわき上がってくるといいます。晴美は後年、「人生という
 ものは決して華やかな陽の照る大道を歩くことでなく、闇に近い暗さの中をうなだれ
 てとぼとぼたどっていく果てしない道のりだ」と語っていますが、その悟りは生涯最
 初の記憶ともつながっているのです。

 

 小学校に上がる前、『祝詞』や『般若心経』を諳(そら)んじる
 ことができた

 晴美に意地っぱりさがなければ、家族のなかでますます疎んじられる存在になってい
 たかもしれません。幼稚園に入園する時も、家族は仕事の忙しさから入園手続きの時
 期も忘れられたままでした。また晴美は体が弱いので幼稚園は1年だけと、親が勝手
 に決めていたため、2年目から晴美は幼稚園に行けなくなったのです。晴美は姉は2
 年幼稚園に通ったのに、自分は1年ではおかしい納得できないと、自分一人で幼稚園
 へ出掛けて行ったのでした(姉の時は、1年の時から祖母の送り迎えがあったが、晴美の時
 は人手もなく一人で通っていた)
。そして園長先生に、どうしても幼稚園に来たいと訴
 えています(5歳の時のこと)。園長先生はまだ幼い子供のその強烈な自己主張に魂消
 たといいます。それを知った母も「何をするかわからん子だ」と父に語ったといいま
 す。
 2カ月遅れで、晴美は晴れて2年目の幼稚園に通うことになりました。姉と一緒の通
 園は、帰りも一緒でした。姉が通う小学校は、幼稚園の校庭とつながっていて、幼稚
 園が終わると姉の教室まで行き、授業が終わるまで待ったのです。小学5年生になっ
 ていた姉の担任だった女の先生(古島先生)が、なんと晴美のために窓際の一番前の席
 に小さな机と椅子を置いてくれたのです。先生は晴美に「キンダーブック」も読むよ
 うにと渡してくれました。

 ところが、この頃(小学校に上がる前)、晴美は『祝詞(のりと)』も『般若心経』も一句
 もつかえず諳(そら)んじることができるようになっていました。「神殿仏具商」の
 生家はそれらが身近にあった空間だったことは間違いありませんが、母が晴美に「教
 育勅語」を口移しに教え込み「教育勅語」もそのころ暗誦できたことからも、母の影
 響があったかもしれません。そのどれもが「節」をつけて覚えたものだったといいま
 す。
 その「節」まわしはどこからきたかといえば、どうも晴美が大好きだった『人形浄瑠
 璃』の独特の「節」まわしだったようです。幼い頃から晴美は、地元で催される『人
 形浄瑠璃』を、最前列で見るのが好きで、意味も何もわからなかった浄瑠璃の言葉か
 ら「文章」を諳(そら)んじるようになっていたといいます。晴美が最初に触れた文
 学とは、『浄瑠璃』の文だったともいえるかもしれません。

 

 

 姉の担任の女の先生の部屋で、『世界文学全集』や『日本文学全集』
 を読み漁る

 晴美は時間がくるまで絵を描いたり、授業を聞いたりしていました。5歳から、小学
 5年生に混じって授業を受けることは、晴美に大きな影響と刺激を与えています。晴
 美は字が読めはじめるようになると、姉の雑誌や本を読み漁りはじめています。晴美
 は病弱で外で遊ぶことも少なく、友だちにも恵まれませんでした。晴美にとって
 「本」は何よりの楽しみであり慰めだったのです。

 古島先生は文学が好きな姉を贔屓(ひいき)にしていたこともあり、姉は日曜になる
 と、晴美を連れて先生の家によく遊びに行っていました。その習慣は、姉が中学生に
 なり、古島先生が勤務する学校を変わっても続きました。姉の本を貪り読んだ晴美
 は、今度は古島先生の部屋の本棚に目をきらきらさせました。『世界文学全集』
 (新潮社)や『日本文学全集』(改造社)がずらっと揃っていたのです。いつしか晴美
 は、姉の読書をも越えはじめ、その全集のすべてを読むようになったのです。
 「書物」は、言葉の遅かった晴美の言葉感覚と心をどんどん涵養していきました。
 ▶(2)に続く-未

参考書籍『場所』(瀬戸内寂聴著 新潮社 2001年刊)/『寂聴伝ー良夜玲瓏』(斎藤慎爾著 白水社 2008年刊)

 

 

 

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