学生団に参加し、ハメをはずして騒いだニーチェ
▶ニーチェ20歳(1864)の頃はどんな生活をしていたのでしょうか。プフォ
ルタ・ギムナジウムを卒業したニーチェは、ボン大学へすすんでいます。大学で
は神学と古典文献学を専攻。現在の日本でいえば成人を迎えたニーチェは、まだ
この頃、牧師の息子として真っ当な選択をしています。ギムナジウムでの学びが
内部に沈潜していって、その内側で、内感において思想の断片や知識が”核融合
反応”しているのをじっと見守っているかのような時期がつづきます。
ニーチェは、フレッシュな大学一年生のような気分で、当時の多くの学生が参加
していた「フランコニア」という学生団に加入しています。その当時の「フラン
コニア」は、1848年の革命の挫折からこの時期は非政治的で、集まっては酒を飲
んでハメをはずしていましたが、決闘すれば頬の傷が勲章となる強面(こわも
て)の体質も依然残っていました。ひと昔前の飲んで騒ぐのがとりえの日本の大
学サークルとは異なり、元はドイツ統一を求める政治的運動の一翼をになってき
た存在で、体制から目の敵にされ地方の大学では禁止されていた団体でした。
ニーチェは「フランコニア」の証の赤・白・金の帯にキャップをかぶり、ビール
祭などの大騒ぎを結構一緒にやっていたようです。ケンルに一緒に遊んだ時には
売春宿で梅毒に感染してもいます。小遣いが無くなり借金もすれば母に無心もし
ています。自分の性格には合わず調子を合わせていただけだともいわれています
が、学生の特権はふるに使っていたようです。
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神学と決別。特殊専門化された古典文献学に対する煩悶
1年後、ニーチェはライプチヒ大学に転学します。尊敬し師事していた古典文献
学界の大物教授リッチュル(ニーチェほどの才能をもった学生には会ったことがない
と可愛がっていた)が、ライプチヒ大学に転属されニーチェも彼の後を追ったこ
とになってますが、ニーチェはボン大学で古典文献学をしていただけでなく、
神学も専攻していました。その神学との決別が内面で進行していたのです。
一時実家に帰った時、神学は止めたと母に宣言し、牧師の跡継ぎをと期待してい
た母と大喧嘩になっています。ニーチェの反乱は、まず神学との決別でした。
それは伝統的キリスト教とつながっている母との精神的な決別でもありました。
もっとも内面に「批判的精神」の種”が植え付けられたのはプフォルタ・ギム
ナジウム時代で、ボン大学での軌道がはずれたような自由さが、神学に対する
「批判的精神」の成長を促したようです。古代ギリシアへの夢と「ディオニ
ッソス」に想いを馳せている最中にも、ニーチェの「マインド・ツリー(心
の樹)」は、ニーチェも、そしてニーチェ家も予想だにしなかった軌道へと、
その幹を伸ばしていったのです。
ニーチェはボン大学での記憶は、福音書批判と新約聖書資料研究がもつ文献学的
側面だけだった、と記しています。そしてライプチヒ大学で専攻し高い評価をも
らっていた古典文献学も、ニーチェの内界ではすでに”解体”されはじめてい
ました。ただある時期までは、知り合ったローデらと「文献学協会」というサー
クルを結成し、ヘレニズムに関する画期的研究を発表したり、3世紀の哲学史家
ディオゲネス・ラエルティオスについての論文を発表したりと、文献学会の新星
として期待されていたのです。
しかし、古代の理想郷への熱い想いと、あまりに特殊専門特化された厳密にして
客観的なアプローチとのギャップに、ニーチェは煩悶しはじめたのです。
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ショーペンハウアー哲学-<自己を認識>する。「鏡」の発見
ショーペンハウアー哲学との出会いは、そんな時期でした。ニーチェが当時下宿
していたのは、大家が隣で古本屋をしている家だったようで、その古本屋の本棚
で偶然ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(1819年刊)を見つけ
ました。古本屋を下宿先にしていたニーチェであれば、あれほど打ち込んでいた
古典文献学と背離しはじめていた矢先、それはもはや偶然などではなく、必然だ
ったにちがいありません。
ショーペンハウアー哲学は「世界、人生、自分自身の心情を身震いするほどの壮
大さで映し出した鏡」だったとニーチェは語っています。ニーチェが”発見”し
たのは、ニーチェ自身の姿をも映し出す大きな「鏡」だったのです。
ゆえに「<自己を認識>し、苛めぬきたいという欲求が私を激しくとらえた」と
あらわしたわけです。<自己を認識>する「鏡」、それがショーペンハウアー哲
学だったのです。「鏡」をえたニーチェの「マインド・ツリー(心の樹)」は、
絶えず激しく<自己を認識>する「樹」に成長していきます。
その<認識>する「鏡」に何度も映しだされ”光”を反射したのは、ニーチェ
が愛した雷や夕立でした。「私の自然のなか、魂の中心に向かって轟いて、浄
化し清めてくれ」と記すニーチェ。
理性によって制度化され資本主義にからめとられ分裂しようとしている人間社会
の対極にある自然の威力。へたな知性によって曇ることのない純粋な意志の発
現。<認識>する「鏡」は、心の曇りを打ち払ってくれるものでした。
そして、精神の苦悩や理性を猛烈に吹き飛ばしてくれる”稲妻の音”は、
すでにニーチェの内なる大伽藍で、魂と感情を高揚させる「音楽」と化していま
した。ワーグナーの音楽は、すでにギムナジウム時代からニーチェの魂を共振さ
せ、「感情」を掻き立てていたのです。
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ワーグナーとの出会い、そして陶酔...
24歳の時(1868年)、ついにニーチェはワーグナーと出会います。偶然ではな
く、必ず出会えるように段取りをした上での出会いでした。ワーグナーがライプ
チヒに来た時と狙っていました(ワーグナーの姉はライプチヒ大学のブロックハウス
教授の夫人だった)。ニーチェはブロックハウス教授に狙いをつけ友人の手引き
で、ワーグナーが同席するブロックハウス家の夕食に招待されるように企てま
す。敬愛するワーグナーと音楽の本質を認識しているショーペンハウアーについ
て熱く語り合うことができ、ニーチェは夢心地だったようです。芸術が「太陽の
眼」となって分裂する人間の全体性を救済しえるという点で、ワーグナーとニー
チェはしっかりつながったのでした。
そしてニーチェ自身も、「太陽の眼」とその光を自己の「鏡」でしっかりとらえ
きり、利害で分裂する市民社会に向けて激しく強く反射させることができる、そ
うニーチェは感じとったにちがいありません。しかし後にニーチェは、あまりに
もこの考えに陶酔しきっていたと気づくことになります。それはまだ先のことで
すが。
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スイス、バーゼル大学へ。員外教授に大抜擢
ワーグナーと知古になった翌年、リッチェル教授の推薦で、ニーチェはスイスの
バーゼル大学に文献学の員外教授(助教授にあたる。幾つかの資料ではしばしば教授
と間違って記されています)に大抜擢されます。若干24歳です。バーゼル市が
ニーチェに打診した時は、まだニーチェは学生で、博士号どころか学士にもなっ
ていませんでした。それでも4人の年長の候補者ではなくニーチェを推薦した
リッチュル教授のみならず古典学会の期待のあらわれだったといいます。
ニーチェは悩んだ末でしたがスイス国籍を取得しバーゼル大学に身を置きます
(ドイツ帝国が成立したのは1871年なので、いっけんドイツ人とおもわれるニーチェで
すが、スイス国籍を取りスイス人となってから発狂して亡くなるまでずっとスイス人でした。
スイス人になるまではプロイセンの国籍でした)。
ワーグナーはバーゼルからほど近いトリプシェンのヴィラに暮らしていました。
ニーチェはほぼ毎週、ワーグナー家を訪れるほどになり、二人は急速に親密さを
増していきました。この時「ワーグナーの近くにいると神々の近くにいるように
感じる」とニーチェは手紙に書いています。
この頃ワーグナーは、大作『ニーベルンゲンの指輪』を上演するためにバイロイ
トに祝祭劇場をつくろうと動き回っていた時期でした(資金不足だった)。ワーグ
ナーはすでに政治的な意味での革命家ではなく、美による革命、芸術から時代を
挑発しようとしていました。祝祭劇場の構想は、芸術の上演がギリシアのように
ポリスの政治的共同体とからみあったギリシア的芸術、「祝祭としての芸術」を
イメージしていたもので、その点においてもニーチェは共鳴していました。
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国家の勝利は、短絡的な風潮を生み出す
1870年にバーゼル大学の正教授となりますが、すぐに普仏戦争(プロシア×フラ
ンス。1870〜71年)が勃発。ニーチェはプロイセンの国籍を再取得し、軍隊に
志願し、看護兵として短期間だけですが(病から2カ月で除隊。翌年も病が続き大学
には休暇願いを出しています)プロシアのために働きます。ドイツはこの戦争に勝
利し、ビスマルクは鉄と血によって国民的統一を図ります。
すぐにニーチェは国家の統一は、文化の矛盾を救うことはできないと気づき、
ドイツ文化はやはり優れていたとする短絡的な風潮に批判的になります。ニーチ
ェによればその勝利はただ単にドイツ軍の勇敢さと指導者への盲目的忠誠心ゆえ
で、文化とはなんら関係もないと言い放ちました。ここにワーグナーとの決別の
種が生じていたのですが、この時はワーグナーの意見が入れられ除隊後の療養中
に書いていた『悲劇の誕生-音楽の精神からの悲劇の誕生』の原稿に手を入れ
(これにニーチェは嫌気がさして当初は原稿の一部のみを印刷)、ワーグナー世界を賞賛
する内容に書き変えてしまいました。 (3)click here
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◉青年期:Topics◉ニーチェは高校時代からヴァーグナーの音楽に触れていた。音楽はニーチェがもっとも愛する芸術ジャンル。ベートーヴェンの理論的師で形式的な作曲法を重視したアルブレヒツベルガーの作曲教本を独学で勉強していた。最初に楽譜を手に入れたのは『トリスタン』の楽譜は「感情」を掻き立てるだけにしかおもえなかったが、次第にウィーン古典派とヴァーグナーの相違を理解するようになり、新ドイツ音楽を評価するようになっていった。
もっともそれは音楽に関心を寄せていたジェネレーションに、ある程度は共通するものではあったが。『トリスタン』の序曲や『マイスタージンガー』の序曲に感激し、楽譜を手にいれ勉強し練習し大声で歌ったりした。 |