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映画の中に「写真」を読む ⚐


映画『たまゆらの恋』周漁的火車(2003)             

監督 スン・チョウ

   

  出演 コン・リー、レオン・カーファイ、スン・ホンレイ
  ベルリン国際映画祭正式出品作品

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コン・リー:インタビュー
 


 

 

 

 中国のトップ女優・鞏俐(コン・リー)が主演するこの中国映画は、陳凱歌(チェン・陳凱歌(チェン・カイ・コー)や張藝謀(チャン・イー・モウ)ら中国映画第五世代監督の実力派スン・チョウの作品である。スン・チョウは他に『心の香り』や『きれいなおかあさん』を撮っているが、ここでは『さらばわが愛/覇王別姫』や『始皇帝暗殺』で見事に大役をこなしてきたコン・リーに恋に迷う現代に生きるふつうの中国女性を演じさせた。

 コン・リーが扮する周漁(チョウ・ユウ)が心を寄せる無名の詩人・陳清(チン・チィエン)は、『愛人/ラマン』で世界の女性をとろけさせたレオン・カーファイ。そのためなのだろう。この映画の日本での一般的な紹介文には勢い、”無名の詩人に無償の愛を捧げる”とつけられる。実際のタイトル『周漁的火車』のクールで即物的な感覚は剥ぎ取られ、二人の男性に揺れ動く”たまゆら”の乙女心をあらわす和製タイトルで化粧され日本のマーケットに流された。だから最初、タイトルを見たとき勘弁願いたいようなラブストーリーと思え、わたしの大好きな中国の「山口百恵」さんことコン・リーを拝めればいいかという後ろめたい(映画鑑賞的には極めて正統な)思いが背中を押してくれたのでどうにか鑑賞にいたったというのが正直なところだ。

 ところがどうだ、観終わった後に、これは中国版『惑星ソラリス』(監督・タルコフスキー)ではないかと勝手に想像をめぐらしかなり興奮した。霧の摩周湖のような仙湖という謎の湖が出てくる。例えば『雨月物語』(監督・溝口健二)の琵琶湖の湖面や湖畔の幻想シーンとはこれまたちがい、仙湖という湖は、最後のシーンまでなかなか姿を現さない。中国の伝説の中の湖かと思うほどに。幻とも現実ともとれない存在なのだ。じつはそこに偉大な世界的発明を数多く生み出した中国文明が、なぜに写真(カメラ)を発明しえなかったか、その謎のいったんがあかされているような気がしたのだ。存在しないことによって”逆照射”するように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この映画に正面きって「写真」は登場しない。近代西欧的なる「写真」は登場しないといった方がいいかもしれない。ただ一カ所だけ陳清が働いている役所で上司から転勤の話しを持ちかけられたその時、机の上の雑誌資料を開けた時にだけひっそりと、だが鮮烈に登場する。写されているのは荒涼としたチベットの風景。この一点の「写真」が詩人の将来と作品に大きな意味をもたらすことになる。このシーンはじつはもの凄く政治的な場面なのだが、それが物語の展開のなかにさりげなく、しかし楔のくさびごとく挿入されているのだ。

 終局で物語が大きく転換するまでは高速鉄道が物語を引っ張る。高速鉄道は周漁の恋と物語の導火線だ。彼女の心と体に火が点ともる手前まで戻ってみよう。

 物語は山明(架空の街ということになっている)の地で、詩人の陳清がダンスパーティで偶然に美しい女性、周漁を見そめたことからはじまる。陳清は彼女に詩と連絡先を書いた紙切れを渡し姿を消す。朴訥ぼくとつな陳清にとってそれは渾身の自己アピールだ。周漁は彼の詩に酔い恋する。片道数時間かかる陳清の住む重陽(註1)まで、忙しく泳ぎ廻る魚のように、ひたすら電車に乗って会いに行く。ある時、列車に乗る際に陳清に見せようと持ってきた磁器をぶつけ割ってしまう。欠けた破片には彼女が絵付けた天女が描かれていた。欠けた破片は彼女の行く末を暗示している。その時、乗客たちの話しから彼女がつくった磁器が、清朝の画風を模した絵付けだということがわかる。

  一方、詩作だけが生き甲斐で人生の目的だった陳清に大きな変化が訪れる。陳清は週に二度彼女が会いに来る度に花一輪持って駅に出迎える。陳清の眼にはモダンなスカートを履く彼女は映るが、同時に彼女をはるばる運んでくる高速電車は見えない。「高速電車」と彼女とは同じ位相、同じ次元にある。彼女を乗せて大陸を切り裂くように走る高速電車こそ本映画のダイナモだ。〈たまゆらの恋〉がはじまる前に「周漁的火車」という本題はすでにこの映画の中心にあらわれているのだ(註2)。

電圧線とたった二本のレールが結ぶ恋はやはり危険でもある。高速電車は彼女にもう一つの出会いをもたらす。ややにやけた獣医の張強(チャン・チャン)との出会いだ。後に彼女の恋の列車は、このもう一つの駅で停車するようになるが、陳清との仲に隙間風が吹きはじめるまでは、彼女は張強と不思議な距離と関係を保っている。 彼女の恋はやさしい恋などではない。高速鉄道のように猛スピードで駆ける激しい恋だ。だから猛烈なキスも彼女の方から求める。現代中国の恋愛事情からしても新しい時代の女性にちがいない(韓国映画では次元は異なるが『猟奇的な彼女』などがそれにあたろうか)。華やいだスカートがよく似合い、行動は素早く電気のようにスパークする。何処か遠くを見つめ謎をかけるような表情。口元をややゆがめてつっぱねるような表情は、彼女が昔ながらの工場で集団で働く女性絵付師の世界だけに埋没できないことを告げているかのようだ。電車の中で壷を売ってくれと迫ってきた男(張強)の目の前で壷を落として割ってみたり、ゆがんだ壷をつくって工場の上司から叱責されたのもその証であるし、自分の方から週一度高速鉄道に乗って恋人に会いに行くという型破りな行動もそうだ。その一途さに彼の詩は充分応えることはできない。

 彼の詩のスタイルと感性は伝統のままだ。陳清にとって周漁は水を満々とたたえている美しい仙湖そのものだ。陳清には古色蒼然とした仙湖のイメージしか沸き上がってこない。彼は自身の幻想を周漁に投影していただけなのだ。

 君に聞こえるように 小さな声でささやく 微風がかけらを吹き飛ばした 

 仙湖の美しい青磁 

 君の肌のように柔らかく 僕の仙湖が溢れる 水を満々とたたえて 

 満々とたたえて

 周漁は仙湖を自分の目で見ようと高速電車を降りて訪ねるが生憎、霧がかかっているためなのか湖を見渡せない。彼女は陳清に仙湖とはどんな湖なのか尋ねる。けれども陳清は仙湖を自分の眼で見てはいなかったことがわかる。〈仙湖〉という神秘溢れる伝説的な言葉でなぞらえた詩をつくりあげていただけだった。それは中国の伝統の作詩法にのっとってはいた。けれども周漁の方は詩を通して、彼の心を、彼のすべてを感じとっていたがゆえに、彼が実際に仙湖を見てはいなかったこと、仙湖という伝統のイメージだけに頼って詩を創作していたことに一抹の不安を覚える。陳清は本当の自分を見ていなかったのではないか。

  ここではじめて陳清と周漁の間に心理的なギャップが生じる。彼女が選んだのは中国の詩の伝統の中にいる一人の男だったし、もともと彼女の選んだ仕事も伝統的な絵付師だ。そこでは相通じていたのに。周漁は勘付いていた。だから陳清を新しい感覚の世界に連れ出そうと詩のイベントを開いたりしたのだ。けれども陳清は部屋にうずたかく積まれた過去の膨大な書物を読み込み、まさに伝統にすっぽり埋まって詩を生み出すばかりだ。ここには自身の直接的体験やそれで獲った感性が入りこむ余地などない。それは写真で写すことはかなわない内面の世界だ。

 「あると思えばある ないと思えばない」

 写真はある・・ものは、瞬間に”あった”とし、ない・・ものはなかった・・・・だけだ。それ以上は撮れない。この境地はこの映画の中で言及されているライトモチーフだ。絵付師と詩人ならば共有している世界、中国の書画のうちに感じあう心境だ。じつは電車内で出会った獣医である張強が最初にこの言葉を周漁に語る。「手相見と同じ。信じるひとは信じる」だけだと。だから周漁が言う詩人の恋人など架空の人物で本当はいないのだろうと思っている。同時に彼は周漁を詠った陳清の詩心を盗もうと、彼の詩を空んじたりもするが張強が信じることができるのは現実の彼女の存在だけだ。彼女が姿を消せば住所を頼りに彼女の家までおしかける。だがそのまた一方で、月に満ち欠けがあるように、今は仙湖は枯れているだけで心で見たと思えばいいと、一転して心の世界に遊ぶ術も持ち合わせている。張強は中国の伝統と現代の境にゆれる人物を体現している。

 唯一、写真が登場する場面は物語がなかばすぎ二人の関係が煮詰まってしまった果てにやってくる。前述したように陳清は勤務先で上司からチベットに教師の仕事か自然保護区の仕事があるので行ってみたらどうかとすすめられる。その資料の冊子にチベットの荒涼として「風景写真」が載っていたのだ。そこは「仙界」として想いをよせるものは何もないといった、まるで月面のような荒々しい風景だ。陳清がこれまでに一度たりとも想うこともなかったであろう剥き出しの現実の風景だ。覇権国中国からすればチベットは依然中国の一部であり、自然保護区であり、教育しなくてはならない土地である。チベットといえばダライ・ラマ。ダライ・ラマといえば今も国外に亡命中の身。中国共産軍はこれまでにチベット人を何万人と殺害してきた。米中の政治戦略上の交点の一つがいわずとしれたチベットであることは今も変わりない。

 下放されたような境遇となった陳清だが、面白いことに陳清はその地で、疲れ果てた心を解き放つかのように新しい詩を生み出しはじめるのだ。そして、詩集『周漁的火車』が誕生する。映画の中でチベットをあえて自然保護区だとした監督スン・チョウはここを「本読み」されるのを期待していたはずだ。詩集のタイトルには、自分が愛した女性の個人名に彼女を乗せ大陸を疾走する高速電車のイメージを足して簡潔にあらわした。今様に言えば〈電車男〉ならぬ〈電車女〉とでもいようか。とにかくそれは彼女が高速電車に乗って一途に彼に会いに行く、そのリアルな現実をそのまま現したものだ。それは書庫に堆積された伝統文化を突き破るほどの力強いイメージなのだ。「写真的」、あるいは映像的イメージといってもいいかもしれない。その詩集が後にはじめて大衆から注目され支持される。サイン会が開かれカメラを持った報道陣が押し寄せる。チベットの風と光をえて陳清が読んだのは新しい中国のかたちだったにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


直接この映画とは関係ありませんが。上海郊外を車窓から見るだけでも中国の大変貌がよく分かります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、周漁は陳清に会いに行くため遥かチベットに向かう。その途中彼女は自分が青磁に描いてきた天女の姿となって広大な草原で両手をひろげて舞っている姿を幻視する。白い袖長の民族衣裳を着て草原で舞う少女が何度も出てくるが、それは中国の長い歴史を舞い続けてきた永遠の天女なのだろう。その後、周漁が乗った車が崖から転落する。周漁は若い命を落とす。詩集『周漁的火車』はその死を引き換えに生み落とされたのだろうか。その詩集は新しい感性をもった多くの若い中国の女性に支持された。そのうちの一人で、周漁にそっくりでショートカットの若い女性(コン・リーが二役している)が、詩集『周漁的火車』が誕生した背景をレポートするため陳清を訪ねてくる。高速電車の中で、周漁らしき女性とすれちがう。そして彼女は電車の床にかつて周漁が落として割った磁器の破片を見つけるのだ。彼女はもう一人の周漁となるのだろうか。

 さて、先にも記したように監督スン・チョウは中国映画第五世代監督の一人である。『紅いコーリャン』や『あの子を探して』の張藝謀(チャン・イーモウ)や『さらば、わが愛、覇王別姫』や『黄色い大地』の陳凱歌(チェン・カイコー)、『青い凧』の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)といった第五世代監督は、中国の過去に対して否定的、否、全否定の立場をとる。この映画でスン・チョウも中国の詩の伝統に否を突きつけた。新しいダイナミックな世界が目前にあるのにそれに目を瞑つむり暗い書庫の底からしか詩をつくりださない頑なかたくな姿勢を否定した。陳清を一人チベットに向かわせたのは彼の心を生き返らせるためといえる。中国にとって自然保護区にしかすぎないチベットの肯定的扱いは中国当局を憤慨させるに充分だったはずだ。

 先にこの映画は中国版『惑星ソラリス』ではないか、と感じたと書いたが、その理由はこうだ。別稿のように惑星ソラリスの不可思議な海は、人間の潜在的次元にある強度の記憶をなんらかの方法で知覚し、その記憶をゼリー状の物質として生み出す。神秘に満ちた全智全能の「ソラリスの海」は、恐ろしくもあり、同時に畏敬される存在だ。それは心の鏡面に映じられる仙湖のような夢幻的な神秘さではない。

 

 

 

 

 

 

 中国では古来から最高の境地といえば、老子や荘子の言う「無為自然」なる世界であり、自然と人間心理がつながりあっている「仙界」である。心境が深まったところに「仙界」が忽然と姿を顕わすのだ。そこが桃源郷だ。最上の「山水」もそれに近い。よって人間心理の及びのつかない過酷な宇宙空間は問題外でわざわざ出向くこともなかった。中国映画は(それが香港製であっても)、宇宙空間を飛行するSF映画はこれまでつくられたことはなかった。繁栄するのは『霊幻道士』や『ジェイ・ウォンの時空伝説』といった映画ばかりで、妖術によってひとが岩山や屋根瓦の上空を飛翔するばかりである。

 二○○五年秋、中国は有人宇宙船「神舟6号」を打ち上げた。有人飛行は世界で三番目となる。また、口径五○○メートルの世界最大の電波望遠鏡を建設する計画をも発表した。口径五○○メートルクラスともなれば天体からの電波はさらに鮮明にとらえられるので宇宙の起源や進化の解明にもつながろう。

 

 

 

 

 


2010年に北京〜上海間の1318キロが5時間で結ばれ、「周漁的火車」は急激に変貌していきます。

 

 

 

 

 中国やチベットを宇宙空間から眺望した時、どんな詩心が生まれるのだろうか。そして中国の視線があれこれ話題をふりまく海洋から遥か宇宙に向かった時、人々の身体に浸透している中華思想はどう変容していくのだろうか。その時、二十一世紀の〈周漁〉が登場し新しい感性をもたらすにちがいない。

 

(註1)これも架空の街である。実際のロケーションは四川省の霧の都市で有名な重慶。

(註2)一九世紀末の西欧でも、伝統的な感性や風景の神話的関係を破壊していく鉄道に不安を抱く瞑想的なロマン主義詩    人に対し、鉄道のダイナミックな運動と速度が生み出す「新しい知覚」と魅惑に現代のポエジーの可能性を積極的    に見い出す詩人が現われはじめた。『感覚変容のデイアレクティク』(平凡社)—「鉄道詩のなかの神話と現代」    水上藤悦 参照

                                        Text by M.Kato / Art Bird Books