ブラジルといえば、サッカーとリオのカーニバル。そしてリオ・デ・ジャネイロといえば、写真集マニアにとっては、それはフォトグラファー、ブルース・ウェバーの名作写真集『オー! リオ・デ・ジャネイロ』(1986)にとどめをさす。限定二千部の粋なこの写真集は、世界中の写真集専門書店でガラスケースに入れられかなりのプレミア価格がついていることはよく知られている。リオの熱気と空気、イパネマの娘たち、別天地のコパカバーナ・ビーチ、キリストが見下ろすコルコバードの丘…それらがウェバー独特の写真眼によって切り取られ、ものの見事にエディトリアルされた。
写真集『オー! リオ・デ・ジャネイロ』の写真の向こう側に、実際には幾つものファベーラ(貧民街区)が広がっている。その一つが本映画で写されたバイオレンス・ゾーン「シティ・オブ・ゴッド(神の街 Cidade de Deus)」だ。
シティ・オブ・ゴッドに代表されるファベーラは、もともと貧しい人々を隔離するために政府が肝煎りでつくりだした公営住宅地である。まるで捕虜収容所のような均一のフォーマットのチープな家が数列、各数百メートルも続く。本映画に描かれたように(原作は実話に基づく)、一九六○年代後半には、ストリートチルドレンと化した少年たちが街を仕切るギャングと化し、他の勢力と抗争に明け暮れる危険極まりない現場に成り果てていた。どの国もどの大都市も、それぞれの歴史的背景と事情から、暗い部分を抱え込んでいかざるをえないが、シティ・オブ・ゴッド(神の街)の場合、主役が年端もいかない少年たちであること、そして彼等が大人はだしに麻薬の密売と銃による殺人でシマを仕切っているところにこの映画が投げかけた重さがある。映画を観たブラジルの大統領が、凄惨なバイオレンス・シーンゆえ本映画にかけられた年齢制限を撤廃し、ブラジルの大勢の子供たちに観せて欲しいと語ったともいわれる。なぜなら二十一世紀になった今日でも、コマンド・ベルメーリョとテルセイラ・コマンドというギャングが衝突を繰り返し、他の貧民街区でも麻薬密売組織と軍警察との抗争は絶えることはなく、陸軍の市内パトロールも頻繁におこなわれ事態は改善されていないのだ。
こうした現実と背景がありながら本映画は、一級のエンターテインメント映画に仕上がっている。サンバ、サルサ、ソウル、ロックが全編に流され、スタイリッシュでアップテンポの画面の切り替えは、従来のブラジルの映画とは大きく異なる。監督のフェルナンド・メイレレスは、テレビ・コマーシャルを数多く手掛けてきた鬼才で(ブライアン・デ・パルマらハリウッド映画から大きな影響を受けている)、この映画に登場する子供たちもすべてが実際にスラム在住の子供たちということだ。そのために二千名もの少年たちをオーディションし、キャスティングしたという。
このバイオレンスでパワフルな映画のどこに「写真」の入る領域があるのか最初はまったく予測不能だ。それが思わぬかたちで「写真」が物語の中枢に向けてかかわっていく。それは貧民街区(スラム)に生まれた一人の黒人少年ブスカペが、スラムを視る”もう一つの眼”をもった時にはじまる。冒頭、逃げた鶏を追う銃をもった少年ギャングたちの姿に”神の街”の異常さが漂う。たかが一匹の鶏に、街中で何人もの少年が血相をかいて銃をぶっぱなすのだ。灼熱の太陽の下、それが”神の街”の現実。余りにも危うい少年たち。このシーンはループを描くように最後の大銃撃戦の序曲になっていることが全編を通した時にはじめてわかる。観る者の脳内でこれまで観てきた映像がすべてミキシングされていく。切れ味のある映像編集力だ。少年ギャングたちと警察の間に立つブスカペ。ブスカペがギャング団に向けシャッターを押そうとしたその時、銃が一人のギャングの胸を撃ち抜く。「写真が俺の人生を変える」とブスカペのナレーション。と、映像は瞬時に一九六○年代後半に飛ぶ。
カメラは、”神の街”の伝説的チンピラ三人組をとらえる。三人組とはカベレイラ(爆発した髪)、アリカーチ(はさみ)、マヘク(鴨)で、その取り巻き連中に後にギャングのボスになるリトル・ダイスと主人公となるブスカペらがいた。”神の街”には電気も通じていなければ交通機関など何もない。なにせ”神の街”は、近接する世界的観光地リオ・デ・ジャネイロの華やかなイメージを守るため、政府が洪水やスラムの放火で家を失ったホームレスたちを外から見えないように押し込んだ場所なのだ。六○年代後半は、各地から天国を夢見てひとびとが流れ込んできた時代で人口増加が一途をたどっていた時代だ。
ブラジルの国技であるサッカーボールを銃で撃ち抜いた瞬間、伝説のチンピラ三人組の無軌道さが激しく転がりだす。一番年少でありながらクレバーなリトル・ダイスのアイデアで三人組は”神の街”の伝説と化す〈モーテル襲撃〉を企てる。そこでリトル・ダイスが牙を剥き、非道な男の片鱗をみせつけるが、その一件が契機となり、伝説の三人組の略奪の歴史は終りを告げる。カベレイラが警官に撃たれ死ぬ際、ブスカペは運命的な出会いをする。倒れたカベレイラを群集に囲まれながら撮影する報道カメラマンの颯爽とした姿を見たのだ。チンピラの兄に辟易していたブスカペは、小さな頃から気になっていたカメラと報道カメラマンの存在をその時に再発見したのだ。
話は変わるが、写真家・篠山紀信が遥々リオ・デ・ジャネイロにやって来て、リオのカーニバルを劇写していたのはちょうどその頃だ。篠山紀信はリオの熱気に感電したかのように、リオの海辺を歩き、自身リオのリズムと化し、彼自身のキャリアのブレイクスルーとなる新しい写真世界を”発見”する。それは篠山紀信の初期傑作写真集『オレレ・オララ』(1971)となって結実した。リオは生と死、性と聖が混然一体となった場所だ。その強度に向かうには相当な覚悟がいったに違いない。純度の高い陽光で眼光を研いた後、篠山紀信は熱気球のごときサンバなヘアスタイルで、日本の湿潤な光と闇に挑んでいった。
さて、場面は高速モータードライブでシャッターが切られたように瞬時に再び一九七○年代後半へ一気に雪崩なだれ込む。ブスカペ一六歳。はじめて安い小型カメラを自分で購入し暇な時はイカれた仲間たちを撮る日々を送っていた。 彼等の間では”公式カメラマン”に昇格する。しかしそれは表向きで彼のお目当てはチャーミングなアンジェリカだけだ。彼女を撮ることが最高の快楽となっていた。アンジェリカからマリファナが欲しいと請われるブスカペ。期待に応えて出来る男を演じたいブスカペ。それがナイーブなブスカペを再び”神の街”の深部へ舞い戻らせる。元同級生がヤクの元締めになっていてブツを安く手に入れられたのだ。
バスの運転手で息子を殺された”二枚目マネ”の登場が物語をさらに劇化させる。 マネは”神の街”のもう一つのシマを手中にしているセルーラの一味に加わり怒りの矢を放つ。”神の街”伝説の大抗争劇が勃発する。劇中でも語られるように、街は南半球のベトナムと化していく。負傷したマネが新聞の一面に大きく取りあげられ、この大銃撃戦のヒーローとなっていることに、リトル・ゼは怒る。アジトで手下(元アンジェリカの彼でヤクに溺れている)にカメラを持たせリトル・ゼ自身のセルフポートレイトを撮らせようとするが、カメラの使い方がわからない。そこでかつて仲間の”公認カメラマン”だったブスカペをアジトに連れてくる。リトル・ゼはギャング団の中央に陣取ってイカしたポーズをとり、ブスカペに写真を撮らせる。ここで可笑しいのは金を渡して現像した写真をアジトに持ってくるようにブスカペに指示する場面だ。リトル・ゼはメディアが社会の中でどう機能しているのかまるでわかっていない。とにかく自身のイカした写真さえあれば満足するのだ。
ブスカペは撮ったフィルムを潜りこんでいた新聞社に持っていくが部外者のフィルムが現像されるわけもない。仲良くなっていた社のカメラマンが自分のフィルムと一緒に現像するように指示を出してくれてうまくいくのだが、ここからがさらに興味深い。現像され上がってきたプリントを女性記者が偶然見つけデスクに持っていく。翌朝、新聞の配送の仕事をしていたブスカペは自分の写真がスクープ写真として一面にでかでかと載っているのを発見し、リトル・ゼに殺されるとおもい社に抗議に乗り込む。が、逆に、新聞社にとってリトル・ゼのグループを撮った事がいかに第一級のスクープ写真なのかを教えられ、報道カメラマンとして仕事をするよう諭される。写真が掲載された場合は使用料が支払われること、社のカメラ・ニコンFを一台供与する、などなど。じつはブスカペもメディアの理解に関してはリトル・ゼと五十歩百歩だったのだ。蛇足ながらスラムの麻薬王の写真をデスクにもっていった女性記者自身もマリファナ吸引者で、ブスカペを家に泊め彼をベッドに誘ってしまう。ブスカペが童貞を失った相手も麻薬漬けだった。麻薬の危険を報道する側も麻薬漬づけになっている。それがリオ・デ・ジャネイロの現実だ。
その頃、朝刊の第一面に載った自身の写真を見たリトル・ゼは、怒るどころか狂喜乱舞、街の新聞スタンドまで自分で手下どもを引き連れて出向きごっそり購入する。リトル・ゼに限らず報道写真というものが、犯人や掲載された当人に意識、無意識に及ぼす影響がものの見事に描かれている。大半の街のひとからすればそんな写真など、どんなツラを下げているのか確認し(註1)、唾棄すべき者として白い眼を投げかるためにしかすぎないが、リトル・ゼからしてみれば自身の顔が広く大衆に知られることになり英雄気取りだ。物語は報道カメラマンを夢み、実際に”神の街”の出身であったがゆえに顔が効き偶然にもスクープ写真を撮ってしまえた事、その自分の立場、環境を”自覚”して、一人前の報道カメラマンとして仕事をしはじめた事、事実を客観的に視ることがかなう”心の眼”をもった一人の少年の成長を通して社会をみつめる。最もブスカペは幼少から銃が嫌いだった(兄がチンピラで銃をいつも持って家族を崩壊させた)。
一人前の報道カメラマンとしてブスカペが見た社会の現実はそら恐ろしいものだった。警察とリトル・ゼは金で繋がっていて、リトル・ゼは捕まってもすぐに金を手渡し、いやむしろ警察からそそのかし、容易に手錠を解かれていた。ブスカペはその一部始終を写真に収めた。その直後、自由の身になったシマの大ボスのリトル・ゼを年端のいかないチビッコギャングが、なんの容赦もなく蜂の巣のごとくに撃ち殺してしまうシーンは衝撃的だ。”神の街”の抗争が日常的に永遠と繰り返されていく様がその一瞬にあらわされる。写真は、そして報道カメラマンは、それに対しどんな力を発揮できるというのだろう。ブスカペは血まみれになって地面につっぷしたリトル・ゼを撮った。その写真はまたもスクープ写真として翌日の新聞の一面を飾った。報道カメラマンは”街”に起こっている現実を撮るしかないのだ。「”神の街”では逃げたら負け。立ち止まってもだ」というブスカペの言葉が響く。
(註1)一般大衆には世間を騒がせる者の顔写真を見たい欲求は強くある。日本でも諸外国でも社会的大事件の犯人がそれが少年であろうが顔写真は極めて重要な情報となっている。ワイドショーでも顔写真が用意されない場合、視聴者は過度の欲求不満に陥るらしい。よってウェブサイトでの顔写真の流出に飛びつくのだ。