出演 オードリー・ヘップバーン 、フレッド・アステア スージー・パーカー、ケイ・トムソン
アカデミー賞脚本賞ノミネート✧アカデミー賞衣裳デザイン賞ノミネート 他
この作品で、映画とファッションは〈婚約〉した。恋愛関係はこれまでもあちこちの映画にあったが、その多くは舞踏会や宮殿の間でのお披露目といった趣きか、歴史の中の絢爛な「衣裳」の再現だった。〈婚約〉の立ち会い人は、観客でもある〈大衆〉である。大戦の戦争参加国で唯一本土に爆撃を受けていないアメリカでこの〈大衆〉が”爆発”していたのだ。 アメリカの〈ゴールデン・エイジ〉と言われている一九五○年代、ファッション面でも新しい無数の”キャットウォーク”が整いつつあった。 新しいキャットウォークとは、”ストリート”である。アメリカでは常に”ストリート”が、新しいカルチャーを放つ。『ティファニーで朝食を』(1962)のウィンドウに映し出された五番街は、大戦で疲弊したパリ、ロンドン、ベルリンに代わって、なんと若々しく健康的な空気を醸し出していたことだろう。魅力的なファッション写真を大量に搭載した『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』に代表されるモード雑誌は家庭内を一掃するとストリートを席巻しはじめていた。 〈大衆〉はすでにアイドリング状態で待機していた。あとは〈大衆〉の好みをキャッチし、誘導し、何色に染めるかが問題だった。この映画では、その答えは「ピンク」だった。しかし、従来の上流階級然としたモデルではどうにも「ピンク」は似合わない。そこからこの映画のストーリーは動き出す。そう、問題はファッション・デザインではなく、待機状態の〈大衆〉をその気にさせるピンク色にぴったりのモデルと、夢見るような〈ファッション写真〉が緊急に必要とされたのだ。 本作品の監督スタンリー・ドーネン(代表作『踊る大紐育』『雨に歌えば』他)は、オードリー・ヘップバーン主役の映画では第三の監督と言われる。オードリーのセックスアピールを感じさせないピュアで妖精のような姿は、『ローマの休日』のウィリアム・ワイラーと『麗しのサブリナ』のビリー・ワイルダーの二人の巨匠が競い合いながら誕生させたものだった。その両作品で、オードリーの提案ですでにジバンシー・ファッションは導入されていたが、それはあくまでもスーパーヒロイン、オードリーのみが着用する権利のある特別なものであった。が、本作品はそのストーリーからも伺えるように、〈大衆〉を取り込むことができるファッションこそが問題で、そのための舞台となるのが〈大衆〉との接点となるモード雑誌のエディティングルームであり、撮影現場であり、ファッションショーだった。そのことが監督スタンリー・ドーネンをして鮮やかな〈オールカラー・ファッション〉を前面に打ち出させることとなった。当時、モード誌『ハーパース・バザー』で、のカリスマ・アート・ディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチのもとで革新的なファッション写真を打ち出していたリチャード・アヴェドンが色彩顧問(Technicolor Color Consultant)としてフィーチャーされることになるが、色彩顧問といえどリチャード・アヴェドンの才能があらゆる面に発揮されているのは映画を見ればたちどころにわかる(註1)。まずオープニングのタイトルバックのイメージには思わず膝を打つ。映画の内様をしっかりと受け止めた上でのあのスタイリッシュなつくり。4×5のカラーポジフィルムとなった透明なオードリーの顔写真がライトボックスに映しだされると、そこにメイクアップされた〈ファニー・フェイス〉が鮮やかに浮かびあがる。モード誌の表紙写真で手腕を発揮してきたアヴェドンならではのセンスにのっけから魅了される。 |
映画の幕開きはこうだ。ニューヨークのファッション雑誌『クオリティー』のワンマン編集長マギー・プレスコット(ケン・トンプソン)がその年の流行を思案し、ひらめくシーンからだ(註2)。「ピンク色でいこう、街をピンク色に染めるのよ!」と。パリのトップ・デザイナーのポール・デュパル(ジバンシーがモデル)の最新モードを、ミス・クオリティーに着せ、パリでファッションショーを開き、そのファッション写真を独占契約し最新号に掲載すれば雑誌は間違いなく売れる、とふんだのだ。 一流のファッション写真家ディック(フレッド・アステア)に写真を依頼する。彼はすでにスタジオで巻頭写真を撮りはじめているが、八頭身のトップモデル、マリオン(註3)の知性のなさに苛ついている。そして面白いのは、モデルが知性がないのならば知的な場所をバックに撮影すればいいという発想だ。 編集者マギーがグリニッジ・ヴィレッジにある暗い本屋を提案する。ディックとマギーはモデルのマリオンと編集スタッフたちを引き連れて知的で暗そうな本屋を探しだす。そこにいたのがオードリー・ヘップバーン扮する本屋の店員ジョーだった。ィックは店主が戻らないうちに撮影を済ましてしまおうという暴挙にでる。ジョーは毅然とした態度で撮影を断るが結局押し切られてしまう。マギーは黒色の長袖服と地味なグ レーの上着を着たジョーに本をもたせ、モデルの傍らに立たせる。モデルを知的に見せようという演出だ。ジョーはマリオンが手にしている本について説明して欲しいと請われ「…その存在は別に意味がない」(傍らのモデルを意味していよう)と語るが、写真家ディックやマギーにはその内様以前に言葉すら届かないようだ。彼らにとって知的に見えるように、その場が演出されてさえいればいいのだ。 とにかくこの段階ではジョーはファッションを目の仇にしている。モード誌『クオリティー』は気取って非現実的だし、ファッション写真も偽善だとディックにくってかかるほどだ。古書店員ジョーを見い出したのは写真家ディックであるが、わたしは当初この映画を観た後で、写真家ディックは現像後のプリントを見て彼女を「発見」したと記憶していた。ところが事情は少しちがっていた。ディックは撮影後に一人残って散らかった本の整理をしようとした際、彼女の”共感主義”に対する熱い思いを聞き、まずは彼女に”共感”していたのだ。ディック的共感の表現は彼女へのキスだった。つまりファニーフェイスの「発見」の前に人間的な「共感」があったのだ。そのことがあってはじめて完全な美形ではない〈ファニーフェイス〉が個性的で人間味あふれる顔立ちとして立ち現れてくる。加えて知性の輝きである。 そう、〈ファニーフェイス〉を輝かせるのは知性の輝きなのだ。 |
最終的に〈ファニーフェイス〉は、暗室で「発見」され、焼き上がったインターネガ・フィルムをライトボックスにかけて確信されたのだ。共感はしたものの写真家ディックはプロの眼で「写真」の中に彼女の類い稀な個性と輝きを確信しなくてはならなかった。 なぜならここでは生身の姿形ではなく『クオリティ』誌の紙面での写り(イメージ)が命なのだから。透明なフィルムが内側から光があてられると、フィルム表面のジョーの輝きはいっそうますのだ。今回の企画に見事にみあう女性はこうして「発見」されたのだった。まさに現代版シンデレラ物語だが、ポイントになるのが靴のサイズではなく「顔」というのがこの映画ならではだ。このことはジョーの風変わりな美しさ「ファニーフェイス」は、「(ファッション)写真」がなければ永遠に見過ごされていた、あるいはチャンスがまわってこなかった可能性があるということもあわせて告げていよう。
そしてディックがジョーをファッションモデルにならないかと誘った場所が暗室だったのが凄い。 ディックは現像し焼き上がったばかりの濡れたフィルムをジョーに見せる。濡れたフィルムの上でジョーは〈もうひとりのジョー〉にすっかり変身している。ジョーは驚く。そこは暗室という魔術的空間なのだ。そしてジョーとディックは暗室の中で一緒にダンスを踊る。ミュージカル映画の中のみならず、赤い暗室照明のもとでダンスを踊ることなど前代未聞だろう。後は”ネガ”のダンスを”ポジ”のダンスに反転すればいいのだ。ジョーのパリでの活躍はここで約束されたといっていい。が、最初ジョーはその申し出を断る。モデルになればパリに行けるとディックはジョーをけしかける。「パリですって!」と一転ジョーは承諾する。ジョーにとってパリはファッションの都ではなく、”共感主義”を唱えるフロストル教授が住む街、共感主義信奉者たちが集うメッカなのだ。
エッフェル塔でお上りさんをディックとマギーと演じダンスたジョーは、撮影の仕事そっちのけで真っ黒な衣装に着替えると、モンマルトルにある共感主義者の溜まり場となっているカフェに 向かう(註4)。ジョーはフランス語は解さないが、気持ちでカフェに集いうひとたちと”共感”し、念願が叶い大満足だ。この”共感する”感性が別の様相となって後に発現されることになる。
パリの社交界と世界のファッションメディアに披瀝する盛大なファッション・ショーを準備するため、ディックはジョーをパリの名所(凱旋門、エッフェル塔、ルーブル美術館など)に連れまわしスチール写真を撮りまくる。この連続撮影シーンは当時ファッション写真が切り開くであろう斬新なモードの世界を感じさせるに充分だ(註5)。白亜の教会をバックに豪華なウェディングドレスに身にまとったジョーは現実とフィクションの境目を往来する。錯角(疑似恋愛)かとおもった写真家ディックへの愛は、魔法にかけられたように後に本物の愛に変身していく。写真が最高の共感を生み出したのだ。現実にもトップモデルと一流写真家は磁石のようにくっついていく。古くはマン・レイとキキあたりに始まり、リチャード・アヴェドンとドエ・ノウェル、アーヴィング・ペンとリサ・フォンサグリーブス、ヘルムート・ニュートンとアリス・スプリングス、デヴィッド・ベイリーとジーン・シュリンプトン(さらに女優カトリーヌ・ドヌーブとも)など枚挙に暇がない。
ジョーの共感主義への思いは教祖フロストルに直接会ったことでますます過熱していく。盛大なファッションショーの舞台裏で、ディックは嫉妬から教祖フロストルを、彼の共感主義はニセモノで御都合主義にしか過ぎない、と言ってジョーと大喧嘩し、ショーを台無しにしてしまう。ジョーはモンマルトルに逃げ込み、教祖フロストルのもとへ走る。ところが教祖フロストルは二人の関係が親密になったのをよいことに、ジョーの美しい身体とも”共感”しようと迫る。心の”共感”を純粋に思い描いてきたジョーはすっかり愛想をつかし、フロストルに一撃を喰らわせてディックのもとへ。こちらの方こそ御都合主義のシナリオにみえなくはないが仕方ない。世界は薄暗い思想哲学の世界(無論、本質をつく思想哲学は心の中で輝くが)から、光輝くモード(写真)の世界へじょじょに移行しはじめていたのだから。いや、本作品が先駆けたのだ。ファッション写真こそ、言葉が通じなくても”共感”しあえる新しい世界。なんという転換(転向)。文字の世界からイメージとモードの世界へ。グーテンベルグ印刷術から、カラーグラビア印刷へ。ジョーは自身の美しさを引き出してくれたファッションの世界へと一気に”共感”していく。
ジョーが求めていた〈共感主義〉とはいったい何だったのか。それは相手の立場に立って考えることとジョーはディックに説明していたが、共感したい心や感性が今そこ・・にあったから”共感”を求めたといってもいいだろう。そもそもジョーが感応していた〈共感主義〉なるものは、時代の流行、あるいは”ファッション”の一つだったといえなくもない。当時「ザズー」と呼ばれるフランス流ビートニクたちがいた。彼等はパリ6区にある「レ・ドゥー・マゴ」や「カフェ・ド・フロール」といったカフェに集うインテリたち(註6)と違って、アメリカの最新のジャズがつねに流されるスノッブなアンダーグラウンド・クラブ(「タブー」他)に屯っていた。彼等は流行りトレンド物好きで気取り屋が多く感性を第一に生きていたといっていい。小説『泡沫うたかたの日々』の著者にしてトランペッターとしても名を馳せたボリス・ヴィアンはこの界隈のスターだった。
ジョーが向かったのは紛れもなくそのアンダーグラウンド・クラブの方だった。映画の中では単にカフェと呼んでいたが赤や青のスポットライトが瞬く雰囲気や造りからして流行りのクラブスタイルのカフェに間違いない。スノッブで気取り屋たちの多いクラブの方だ。 ジョーを探しにディックがその店に入るやいなや女性が一緒にダンスしない、と誘いにくるほどの軽いノリだ。実際にジャズや流行の実験音楽が入り交じった音楽が絶えず流されていたし、ステージ上ではジャズが生演奏されていた。 監督ドーネンは「共感主義者」について、当時の実存主義者のパロディのようなもので流行の気取り屋パリジャンたちのことを表したと語っていたが、実際にパロディでなくとも「ザズー」たちが本当にいたわけだ。「ザズー」たちは決して黒づくめの服を着てはいないので、映画の中のカフェではジョーだけが黒づくめの服となってしまっている。それが逆に目立ち演出的な効果を生んではいるが。しかし彼等のファッションはじつはすてたものでなく、オートクチュールに対抗する〈サンジェルマン・スタイル〉と呼ばれる街の小粋なファッションだった。普段着のイカしたパリモードもこの映画から日本にもたらされたとも言われる。モード業界が注目したのはなにもジヴァンシーのドレスだけではなかったのだ。 「ザズー」も「共感主義者」も時代のひとつの”ファッション”ととらえることも可能だろう。”ファッション”は時代の空気や感性、そして共感の発現でもあるから、どうも乗れないとなれば、別のものへのスウィッチは比較的容易におこる。ジョーにとっては〈共感主義〉から、ファッション・フォトへ、また心酔する男性が教祖フロストルから写真家ディックに切り替わったということになる。 本作品が公開された五○年代は〈ゴールデン・エイジ〉と呼ばれ物質的に豊かになった一方、個人個人が否応なく孤立していった時代でもあった。ジョーが共感主義にのめり込んでいったのもそうした時代の精神的背景があったことは容易に想像がつく。思い起こせば、反物質主義で新しい精神的実存を求めたビートジェネレーションは、すでに五○年代に脚光を浴びはじめている。ウィリアム・バロウズは一九五○年に小説『ジャンキー』に早々と着手しているし、一九五六年にアレン・ギンズバーグは詩集『吠える Houl』を出版、ジャック・ケラワックの小説『路上 on the Road』も一九五七年に発行されるとベストセラーになっているほどだ。それと同じ時代に本作品が製作されたとはちょっと思えない。さらに六○年代に入ると反体制、反戦からカウンターカルチャーは勢いを増し、フラワーチルドレンが街に溢れ出す。もし映画の中でジョーがそのまま古書店で働いていたらフラワーチルドレンになっていたかもしれない。けれどもロバート・フランクの写真集『The Americans』(初版1958年 フランス・デルピエール)には共感を示さなかったかもしれない。それは安易に共感を誘うものではないからだ。けれどもきっと放浪よりも共感を求め、グリニッジ・ヴィレッジで自作の詩を朗読し、ジャズがかかればダンスを披露していたにちがいない。 |
それから十余年後、同じグリニッジ・ヴィレッジにあるブレンタノ書店でアルバイトをする女性がいた(一緒に住むようになるロバート・メイプルソープは5番街のブレンタノ書店で働いていた)。 後に「パンクの女王」となるパティ・スミスだ。彼女はニューヨークに出て来て偶然にも写真志望のロバート・メイプルソープと出会い(デビューアルバム『Horses』(1975)でパティのジャケット写真を撮影)、”共感”し同居人となる。さらにアルチュール・ランボー、ボブ・ディラン、サム・シャパード、ジェラルド・マランガ、レニー・ケイらへの”共感”が、玩具工場での労働後すべての望みを失っていたパティ・スミスを詩人として蘇らせていった。一九七四年にインディーズ・レーベルとして自主製作したデビューシングル「ヘイ・ジョー」で大きな衝撃を与えた。偶然にも、オードリーの書店員の名前と同じジョー・・・に向けての詩だった。
(註1)アヴェドンがフレッド・アステア扮する写真家のモデルである。アヴェドンに敬意を表し写真家の名前はリチャード”愛称ディック”・エバリーとなっている。マリリン・モンローはアヴェドンへの私信で、Dear."Mr.Dick"と書きはじめているほどだ。
(註2)編集長マギーは、ファッション界のカリスマ、ダイアナ・ヴリーランドをモデルにしている。ダイアナ・ヴリーランドは、フランス・パリ生まれ。ニューヨークに移住し、一九三九年から「ハーパース・バザー」のファッションエディターとして、また一九六二年から「ヴォーグ」の編集長を務めている。一九七一年、メトロポリタン美術館の衣装部門コンサルタントに就任。
(註3)マリオン役を担ったのは、実際アヴェドンのモデルを数多くこなしていた米国五○年代のトップモデル、スージー・パーカーである。。本人はカミュやサルトルなど実存主義の書籍もよく読む知性派だったらしい。書店員ジョーの役柄はスージー・パーカーが反映されているようだ。また、後にアヴェドンと結婚したイヴリン・フランクリンがモデルになっているともいわれる。
(註4)ジョーが向かったのは本当はモンマルトルでなくサン・ジェルマン・デ・プレのはず。モンマルトルが高感度地区だったのは印象派、後期印象派の画家たちが多く集った一九世紀後半から二十世紀初頭のことだ。一九四○年代から五○年代にわたってパリで一番シックでイケてる地区はサン・ジェルマン・デ・プレで、オランダ出身の写真家エド・バン・デル・エルスケンがパリに滞在し(一九五○年から五四年の間)カフェに屯たむろするアウトサイダーの若者たちをスナップ撮影したのもジェルマン・デ・プレである。ニコ(後にアーティストとなるヴァリ・マイヤーズ)を写真集の構成の主人公として編んだ傑作ドキュドラマ写真集『セーヌ左岸の恋 Love on the Left Bank』が出版されたのは本作品の公開前年の五六年。もう一つの有名な地区モンパルナスは第二次大戦前に最も華やいだ。
(註5)このシーンの撮影のためにアヴェドンは監督ドーネンと協力して新しい撮影技法を開発している。両面ミラーをカメラにをかぶせ、そのミラー像を撮影し、できあがったスチール写真を映画のフレームに合わせることによって画像の透明度を写真なみに高めたという。
(註6)サルトルやボーヴォワールら実存主義者たち。他にブルトン、ピカソ、マン・レイ、ヘミングウェイ、コクトー、ダリ、アントナン・アルトー、ジャコメッティ、キリコ、ジェイムス・ジョイス、コルビジェ他。
(註7)『The Americans』は米国のダークサイドばかりを写し出した写真だとして米国では出版社がつかず、フランスの出版社Delpiereが発行することになったいわくつきの写真集である。その二年後に米国の出版社Grossmanが米国での発行を引き受ける。